ネバーエンディング

終わらない架空の日記をつけています

金銭罪悪

 

 

 

 

 

 少し乱暴な感じのするネットスラングを臆面もなく誰かが使っている場面に遭遇すると、カーッと勝手に顔を赤くして居心地が悪くなってしまう。端的に言えば恥ずかしいのだ。他人に不愉快さを覚えさせることはあっても決して愉快にさせようもない言葉を、どうしてそう躊躇いなく口にできてしまうのだろうなどと善人めいた感想を胸に抱く。しかしそれも程度の問題だ。クソワロタ、は気に食わないけれど、くそわろた、はいけるなあという具合に。片仮名と平仮名の違いは存外書き言葉において大きな領域を占めている。前述の例に限った話にはなるけれどひらがなのほうがほうげんっぽくなるきがしまいか。しないか。

 

 世の中の大多数からしたらどうしてそんなしょうもないことに頭を悩ませているのかと苦笑いを浮かべたくもなるであろう問題はもうひとつあってそれがつまるところ金銭を消費することに対する罪悪感というものなのだけれど、こいつはどれほど戦ってみてもいよいよ決着のつく気配は見えない。またもや程度の話にはなるが、あ〜使ってしまった、くらいの軽い後悔ならそれこそマジョリティにカウントされても問題ない気がする。自分の方のやつは兎にも角にも一銭でも使えば呼吸が早くなってしまって一晩中頭を抱えて手元を離れた金額に見合った人生を自らが送れているのかどうかというひとり詰問状態に突入する段階まで来ている。もはや恐怖症の一種のような気がしてならない。ところが徹頭徹尾半端者として生きている身であるのでこれもまた罪悪が膨らむ瞬間とそうでない瞬間は必ずある。そしてタチの悪いことに豪遊してからさらに10倍くらい増量して落ち込むことになるのだった。ばかだ。ほんもののばかだ。

 

 親のお金だから〜なんて軽い口調で呟いて笑いながら長距離バスのチケットと宿の予約をポチった友達がいた気がするが、彼らの感性が心底わからなくて泣きたくなる。他人の金を自分の金よりもぞんざいにばばっと使ってしまえるのは一体どれだけ自人生に胸を張れる生き方をしていればできることなのだろう。親が親であるという一点のみで自分に金を費やすことが恐怖以外のなにものでもなかったのでいつだってそんな楽しげな様子の友人たちを曖昧に笑って眺めていた。自分は自分が生まれたことに罪悪感しか持っていないゆえに、感謝も無神経も何ひとつわからず肉親がこの世から1人残らず消えたあともごめんなさいを言い続けて不細工に生きてゆくのだろうと思うとなんだか泣けてきて白湯さえもしょっぱくなってしまう。終わりが来るのは早い方がいいな。