ネバーエンディング

終わらない架空の日記をつけています

感性の平和

 

 

 

 

 

 10秒と聴くに耐えない音楽は存在する。あくまで個人的な感想の範囲ではあるが、自分にとってのそういう壊れた音の羅列が世の中ではブームを巻き起こしてCDを山のように売り上げていたりダウンロードサイトのランキング表に踏ん反り返っていたりさらには道ゆく子どもが口ずさんだりしていて非常に面食らう。論理的に理性的に表現しきれないこの曖昧な好き嫌いに関しては個体ごとに違うとしか言いようがなくて科学の畑におわす方々に早急に答えを出してほしいところではある。できるもんなら。

 

 生理的に無理、という言葉が学生時代の一定期間で女子によって何遍も使われていたものだがこれもかなり似通った話になってくると思う。つまるところ原始的な感情であればあるほど本人の意思では何をどうしたって制御の効かない部分なのだ。ゆえにこそ差別だとか戦争だとか宗教だとか、力技でなんとかしようともどうにもならないんじゃないかなあ。諦めるしかないんじゃないの。そんな風に思う。自分にだって御せないものを他人がどうこうできるだなんて思い上がりだ。などと未来を決めつけるのもちっぽけな人間のひとつとしてはあまりにも傲慢だと言えばそれはそうだ。だけれども理由のない獣性的な嫌悪がどんどん生まれ続けるなかでこれまた理由のない獣性的な好意が生まれ続けているのも事実であって、そいつらまでなんとか解き明かそうとあれこれ理屈をこねる必要はきっと無いと思うのだ。どうだろう。誰それのどんなところが好きで行動を共にしているのかと問われて考え込んだ結果妙に冷静になってなぜこんなにも好きだったのだろうと空虚を抱え込む必要は微塵もないはずだ。好きなものは好きでそこに理由なんて無い。あなたは眼前の人間がつらつらと発する音が言語であるとなぜわかるのですか。あなたはイヤホンから流れ出るしゃかしゃかした音が発話の一部ではなく音楽の一節であるとどうしてわかるのですか。要するにそういうことだ。そしておそらく、よくわからないけれどとにかく好きなのだ、という感情が差別をなくすこともあるのかもしれない。よくわからないけれどとにかく嫌いなのだ、という感覚から殴り合いの喧嘩に発展してしまうのと同じように。感性に忠実に生きることは思考停止とほぼ同義であるし哲学を重んじる身としては最低最悪の愚行となりうるのだけれど、そうやって人間の特権をかなぐり捨てて自由に心の赴くまま各々が生を謳歌する世界が、いったい今の世の中とどれほど違っているのか下世話な興味が唇をニヤニヤ歪めている。何にせよ世界の終末は早い方がいい。そんなことを歌っている音楽家が好きであり嫌いだ。